時間が足りない

 資格取得のために本当に久々に学校に行き始めた。最初は不安だったが、学校は思ったよりすごく楽しくて元気に毎日通っている。人見知りするし(この年で人見知りも何もない気がするけれど。口当たりのいい言葉で言うと人見知り。でなければコミュ障)、生徒さんは世代バラバラだし、なじめるのかな、どうかな、と思っていたけれど、皆いい人ばかりでおしゃべりも楽しい。

 学校に行く前、似たような学校に行っていた友達から「人間関係がそれはきつくてきつくて大変だった」と聞いていたので、「学校は勉強しに行くところよ! 一人でお昼食べればいいし、休憩時間は携帯見るか本を読んでおくわ!」とものすごい身構えていたのだが、クラスの雰囲気も和やかだし、勉強熱心だし、休憩時間には声をかけてくださる方もいて、とてもありがたい。

 

 お昼も絶対に一緒に食べよう! というわけでもなく、一緒に食べても食べなくても、という緩い感じなので、さすがみんな大人だなあ、と思う。お弁当も時々休みつつ、どうにか毎日作っている。とにかくすごくおなかがすくので、ご飯を思いきり詰めて持って行っている。自分で作っているので「今日はどんなお弁当かしら」というわくわく感はないが、その代わり「今日はこれを持ってきたから、お弁当が楽しみ!」という別のわくわく感がある。

 

 学校は楽しい。ただ、家事との両立が結構しんどい。学校から帰ってくるとぐったりとしているが、たまった家事を片付けないと寝るのが遅くなるので、「休みたい。寝たい。遊びたい」という自分と戦いながら家事をこなしている。結局は何事も体力なんだろうなあ。睡眠不足だと人生に対して悲観的になるので、ある程度の睡眠時間はキープするようにしている。それでも、週末になると倒れそうなほど疲れてしまう。

 

 これはどうにかならないかと、ネットや本を見ながら「平日のために週末にまとめて作り置き」を実践したところ、逆にますます疲れてしまった。週末にできなかった家事をまとめてしたあげく、料理に何時間もかけていたら、休む間もなく終わってしまう。平日に簡単な料理をする方がまだいいだろう。しかし私にとって簡単な料理というものはない。

 

 これで仕事も始めたらどうなるんだろう、という気がしないでもないが、どうにかするしかないんだろう。

 

 

禍福は糾える縄の如し

 「禍福は糾える縄の如し」ということわざは桑田乃梨子さんの漫画で知ったのだが(『青春は薔薇色だ』か『人生は薔薇色だ』のどちらか。広瀬が好きなことわざで知った)、年が明けてから何度もそんな思いを味わっている。ただ、幸福や不幸は自分の行動から来るものではなく、どこからか降ってくるようなイメージなので、今回の場合自分の行動から起きている事柄ばかりなので少し違うのかもしれない。

 

 用事があるため早起きをして「そうだわ。昨日の残りの肉じゃがをトーストに乗せて、とろけるチーズものせて、ピザトーストにしましょう」とオーブントースターで焼きはじめて、「なかなか焼けないわね。待っている間に他の用事をしましょう」と少しだけはなれていたところ、何やら焦げ臭いにおいがした。慌てて見に行くとチーズがとけすぎて、焼き網どころかオーブントースターの中まで落ちていた。ピザトーストは多少こんがりしていたが、肉じゃがと合わさってとてもおいしかった。

 「わーおいしいー。肉じゃがはパンにも合うわね」と思いながらも気分は落ち込む。

 食べ終わってからよくよく見ると、ヒーターとそれを支える棒にまでチーズがかかっている。しかも焦げている。しかし時間は迫っている。

 

 私、なんで、よりによって、どうしても用事がある日に限って、肉じゃがピザトーストとか作ろうと思ったんだろう。っていうかこれどうするよ。

 動揺しながらもとりあえず、オーブントースターのコンセントを抜いて外出した。外出先で落ち着いてから携帯で検索したところ、中の網を外してぬらした布巾でふいたり、どうしても取れない場合は重曹を使うといいらしい。

 

 帰宅してから説明書を引っ張り出して、焼き網を外してみることにする。案外あっさり外れたので、きれいに洗って、オーブントースターの内部も拭いた。だが、ヒーターと支える棒のチーズは取れない。これはいよいよ重曹の出番か、と思ったが、オーブントースターの種類によっては重曹を使ってはいけないらしい。念のためメーカーのフリーダイヤルに問い合わせてみたところ、「無理して拭かずにそのまま使って、焼ききってください。そのうち焦げて取れると思います」と言われた。今現在、まだ焦げはついているが、特に問題なく使えているので大丈夫だと思う。説明書をよく読んだら、「ピザなどを焼く場合は付属のトレイを使い、さらにアルミホイルを使ってね」と書いてあったので、「わかってるけどー。まあ、いいかなってー」と面倒がらずにやはり指示通りにする方がかえって面倒なことにならないと思う。

 

 さて、チーズが溶けた事件で何が幸福なのかというと「オーブントースターの焼き網が自分で外して洗えるということを知らなかったが、今回で知ることができた」(説明書読めよ)ことと「オーブントースターの内部の掃除を大掃除でしなかったので、ちょうどよかった」ことくらいだろうか。何かを面倒がって、逆に手間が増えることはよくあるのだが(例 適当に物を取ろうとして前にある物を倒して、恐ろしい事態になることなど)、そのたびに私はどうして何度も同じ失敗を繰り返すのか、と落ち込んでいる。(しかし治らない)

 

 もう一つは冷蔵庫のみかんが腐って悲惨なことになっていたことである。

 

 おなかがすいたのでおやつを食べたい。でもお菓子は太る。それなら果物を食べましょう。確か、冷蔵庫にみかんがあったはずだわ。

 

 と野菜室をみたところ、何やら底に緑色の汁が広がっていて、出どころは腐ったみかんだった。驚愕しながらもみかんを取り出して捨てて、すべての野菜を出して、布巾で拭いた。同時に腐りかけたもやし(残り半分)も発見して泣く泣く処分した。(私はもやしが好きだ)その後、カビなどが心配なのでアルコールを染み込ませた布巾で拭いておいた。

 

 これは何がよかったのかというと、大掃除で冷蔵庫の野菜室を掃除していなかったので、できてよかったということである。

 

 書いているうちに「全部自業自得じゃん」と思えてきた。とりあえず、みかんは買ったらすぐ食べるようにしよう。ああ、みかんが食べたいなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年

 遅くなりましたが新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 

 今年は2017年であり、平成29年になったにもかかわらず、必要な書類につい28年と書いて訂正するはめになっている。慣れるまではまたちょこちょこ間違えてしまいそう。

 今年は去年よりは文章を書いたり、本を読んだりしたい。せめて、このブログも月に一度は更新できるようになりたい。いや、本当は週に一度書けたらいいとは思うけれど、たぶん無理だろう。

 

 2016年は激動の年だった。ブログやツイッターでは趣味について好きなだけ語る場所でありたいと思っていたので、あまり書かないようにしていたのだが、いままでの人生で一番激動の年だったのではないだろうか。とても良いこともあったし、とても悪いこともあった。年明け早々父の大病が発覚し、家族全員で落ち込んで、夜に布団に入っても涙が止まらず、泣いて泣いて苦しい思いをした。ただ、あまりにもつらかったせいか、そのときの記憶は半分飛んでいる。本当に運よく早期発見だったため、父の病は入院と投薬治療で治った。当初は退院後、回復するまで他の病院に転院する予定だったのに、自宅療養で全快した。

 医療ってすばらしい。他の検査をしていたのに発見してくれた、お医者さん、どうもありがとうございます。

 

 他にも実家を出て独立したり、自分の料理のセンスのなさに絶望したり(センスというか時間がかかりすぎるというか)、長年勤めた仕事を退職して、今は求職活動中だったり、いろいろあったが、とりあえず今年も自分なりにがんばっていきたいと思う。

 

嘘をついてはいけない

 

 先日甥っ子が遊びに来てくれたときに

「ねえ、カラタチちゃんって何歳なの?」

「えっ? 26歳だよ。甥っ子ちゃんは?」

「5歳だよー」

 

 という会話をした。しばらくして

「ねえ、カラタチちゃんとパパってどっちが年上なの?」

「ん? パパの方が年下だよ。カラタチちゃんはパパのお姉さんなんだよー」

「そうなんだー」

 

 という会話をした。しばらくして

 

「あれ? でも、パパって3×歳だよ」

「そうだねえ」

「カラタチちゃん、さっきパパより年上って言わなかった? それなら、なんで、26歳なの?」

 と不審な顔をされたので仕方なく白状した。

「実はカラタチちゃん、3×歳なんだよ。さっきは嘘をついたんだよ」

「えええええー。なんでー? なんで嘘ついたのー?」

「なんでだろうねえ。甥っ子ちゃん、こんな風に嘘をついたら、すぐにわかるし、怒られるんだよ。嘘をついたらいけないんだよ」

 

 という感じでいかにも「嘘をついてはいけない講座」という風にまとめておいた。純真だが世間のわかるようになってきた甥っ子にもはや年齢のサバ読みはできない。

 

 後で弟に

「姉ちゃん、何歳って言ったん?」

「26歳」

「はあ? ふざけてんの?」

 

 と非常に冷たく言われた。いいじゃん。本当は23歳って言いたかったところを26歳って言ったんだからさ。

 

たぶんアレルギー

 毎年この時期になるとアレルギーなのか乾燥のせいか肌のかゆみが出てくるのだが、今年は耳の中のかゆみがひどくて困った。なんとか落ち着かせようと綿棒でつついていたら出血したので、これはいけないと思って、病院に行ってきた。以前放置したら外耳炎になってそれはそれは恐ろしい思いをしたからである。(単に処置が痛かっただけだが)

 

 今回は外耳炎にはなっておらず、「もう耳掃除はやめてくださいね」と言われて点耳薬を処方された。外耳炎になった際処方されたこともあるのだが、目薬を兼ねている点耳薬は初めてだった。つまり、目薬を耳の中に入れるわけである。別に痛いわけではないがひやっとして、耳の中に水が入っている感じがして何とも気持ち悪い。

 これで中耳炎とかならないでよね、と心配しながらもかゆみがかなり抑えられるので続けることにする。

 

 

『贖罪』

 

贖罪 (双葉文庫)

贖罪 (双葉文庫)

 

  空気のきれいな町で少女が殺された。殺された少女の発見者となった四人の少女は事件に巻き込まれたことによって人生を狂わされてしまう。犯人は誰だったのか。少女たちの贖罪とは何なのか――。

 

 湊かなえさんらしい人の悪意に満ち満ちたえげつない作品だった。えぐいなあ、つらいなあ、と思いながら一気に読んでしまった。救いがないので、救いがない話が苦手な方にはお勧めできない。

 

 私がミステリが好きなのはきちんと動機があって殺人が起こり、それがきれいに解決するからなのだが、今回の話は動機も決して納得できるものではないし、きれいに解決していないし(だからこの作品はミステリにカテゴライズできない)、何よりも幼い女の子がひどい目にあっているのが読んでいてとてもつらかった。ただ、殺人に至る動機はともかく、周辺の心理描写は好きではないけれどおもしろいと思う。

 

 湊さんの本は続けて読むと心が弱りそうなので、また気が向いたら読むかもしれない。

 

 以下はネタバレ感想。

 

 

 この物語は一章ごとに事件に巻きこまれた少女一人ずつの手紙や独白で話が続いていき、最後に真相が明らかになるという作りになっている。

 

 少女たちは被害者エミリの母麻子から娘を殺した犯人を見つけるか、贖罪をするように言われてしまう。その言葉を背負って生きることとなった少女たちの苦しみが描かれているわけだが、あんなに幼くして殺人の現場に居合わせてしまった少女たちもまた被害者なのにこれほど苦しめられる必要はなかったように思う。

 

 紗英の物語は最初からすごい展開でくるな、と思った。エミリが暴行をされて殺されたのはこの物語のためなのではないか、とも思う。殺人未遂で終わるかと思いきや、本当に殺してしまったので、まったく救いのない話ではあった。しかし、特注のドレスってすごいな。日本なら逃げられたかもしれないのに。

 

 真紀の物語は人の心理ってえげつないなー、と思わされるお話だった。小学校の教師となった真紀が変質者から子どもたちを守るために命がけで戦い、救ったわけだが、犯人がそのときに死亡してしまったために英雄から一転、加害者として非難されてしまう。現実はここまでひどくないと思いたいけれど、何かほころびがあるだけで非難されてしまうのは恐ろしいと思った。この事件によって、ようやく真紀は過去から解放される。一番救いがあるのは彼女だけかもしれない。

 

 晶子の物語はひたすらえぐい。冒頭でエミリが悲惨な目にあっていたから、もうそういう場面は出てこないだろうと思ったのに、もっとひどい場面で出てきてしまった。内容を書こうとして、悲惨すぎて書けなくなった。これはなー。晶子の母親は全部兄の嫁のせいだと言っていたが、いくら何でもそれはない。というか元々晶子の兄はそういう嗜好の持ち主で、娘目当てで結婚したのではないか。なんだか、この物語は唐突すぎて、えぐさだけが残る話だった。若葉ちゃんが忘れものをしたのは助けを求めるためにわざとしたことではなかったのかな。義理の祖父や祖父、叔母に優しくされながら、義理の父に虐待されるなんて、これほどつらいことはあるだろうか。若葉ちゃんだけはすべてを忘れて幸せになってほしい。晶子は正気を失ったままだし、正気を取り戻してももっとつらい思いをするだけだと思う。まったく救いのない話だった。

 

 由佳の物語は女性のねちっこさがよく描かれた嫌な話だった。子どもがいるんだから、強く生きていってほしい。

 

 最後はエミリの母親麻子の物語である。

 麻子は娘を失った苦しみをそのまま少女たちにぶつけたわけだが、「犯人を探せ」と言うわりに自分は必死で探していないし、自分の投げかけた言葉がそれほどまでに少女たちを苦しめたとも思っていない。自分の言動を振り返り、娘はなぜ殺されなければならなかったのか気付くのは最後の最後だ。それでも、彼女の独白を読む限り、本当に自分の言動に責任を感じているのかは疑問が残る。「私は思ったことを言っただけなのに、なぜあなたたちはそんなに気にするの? 気にしていたのなら、直接私に言えばよかったのに」という考え方は最後まで変わらなかった。

 

 一番納得できないのは犯人の南条がエミリを殺した動機だ。12歳のエミリはむごいことに暴行されて殺されているのである。麻子を許せないのなら、彼女に直接復讐すべきだったし、どれだけ恨みがあろうとも、まったく罪のない幼い少女をあんなに無残な殺し方をする理由にはならない。

 

 麻子の独白を読む限り、南条がそれほどの凶行に及ぶほどの動機も弱い気がする。麻子の行動のせいで彼の愛した秋恵は死に追いやられたのかもしれないが、その責任の一端は南条にもあったのではないか。秋恵と別れた後、麻子と交際していたのは南条なのだし、指輪をあげたのも彼の判断なのだから。秋恵のことがどうしても忘れられないのなら、秋恵を思って独り身でいればよかったのに、と思う。

 

 最後、南条はエミリが本当は自分の娘だったと知って、自首か自殺かを選んだわけだが(作中には名言されていないが、自首だろうか)、自分の娘ではなかったら彼は悔いることも行動を起こすこともなかったのだろうか、と思うとすごく嫌な気分になる。どれだけの動機があったとしても、まったく抵抗できない相手に、守るべき子どもに、あんなひどいことをして15年も平気で生きてきたのだから、南条が極悪人としか思えない。

 

 この物語は事件によって人生を狂わされた少女たちを描くためにあるのだろうから、エミリは通り魔による快楽殺人の犠牲になった、とだけでよかったのではないかと思う。いまいち犯人の人物像と動機と凶行がそぐわないような気がして、もやもやとしたまま読み終えてしまった。

 

 

 

 

 

やたら疲れる

 がらりと環境が変わってしまったというのもあるんだけれど、やたら疲れる。前に比べたらぜんぜん忙しくないはずなのに、疲労度が増している。環境の変化にすぐに適応できないのは昔からなので、そのうち慣れたら楽になるのかな、と思っている。

 

 今住んでいるところは図書館が近いのがうれしい。以前よりは読書量はかなり減っているんだけれど、図書館の本の並んだ書棚や本を選ぶ人たちを見るのが好きだ。(じろじろは見ないけれど)古典文学のコーナーなんて、背表紙を見ると懐かしくてしばらく眺めてしまった。普段読まないジャンルもこの際だから、読めたらいいな、と思っている。